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水曜日の夜、二十三時四十分。
「……今日は終電じゃないだけ、ましか」
吐き出した息が、白く空気に溶けた。誰にともなく呟いた声を、自分の耳で確かめるように聞く。明日もどうせ残業の予定だ。この疲労がそのまま明日に持ち越されることは、もうわかっていた。新ブランドの立ち上げが秋から本格化する、という話が部内に下りてきてから、紡のデスクには毎日、判断待ちの書類が積み上がっていく。会社を出るころには、もう、二十三時を回っていた。
ポケットから指先をだして、目頭を軽く揉んだ。少しだけ、楽になった気がした。
乗り換え案内のアナウンスが、ホームに流れる。同じトーンで繰り返される録音音声のあいだに、駅員の生のアナウンスが混じる。終電が近い時間の駅は、いつも、こんな空気をしている。明るすぎる蛍光灯と、薄く酒の匂いが漂う構内と、誰もどこかへ帰りたがっている顔ばかりが並ぶホーム。
ふと、紡は自分の立っているこの駅が、自宅にも会社にも近くないことを、もう一度、意識した。乗り換えのために降りた駅だ、ということにしている。一年ほど前から、紡はときどき、わざわざこの界隈で電車を降りるようになった。理由は、自分でも、ちゃんと言葉にしていない。言葉にしたら、ばかみたいだから。
ただ、何度かこの駅を歩いてみても、なにかが起きるわけではなかった。当然のように、なにも起きないまま、紡は何度も、別の路線に乗り換えて家に帰った。それでも、月に一度か二度、紡はこの駅に降りた。降りたあと、改札を出るでもなく、ホームのベンチに座って、しばらく電車を見送ってから、また別の電車に乗り直すこともあった。自分が、なにを期待してここで降りているのか、確認しないようにしてきた。確認したら、そのときに、自分の行動の意味が、急に、こわい色に変わる気がした。
考えはじめたら止まらなくなる気がして、紡は浅く息を吸って、考えるのをやめた。
電車が滑り込んできた。
巻き上がった風が、前髪を乱す。冷たい空気がスーツの首元から入り込み、紡は反射的に肩をすぼめた。降りてくる乗客はまばらで、誰の顔にも、同じ色の疲れがにじんでいた。駅員が無機質な声で、乗り換えを案内している。
電車のドアが閉まりかける音がした。
乗ろうと、足を踏みだした、そのとき。
ホームのベンチに、ひとり、男が崩れるように眠っている。その姿が、目の端に入った。
酔いつぶれたサラリーマン。よくある光景だ。誰もが見て、見ないふりをして通り過ぎていく、夜の駅の風景のひとつ。
不用心だな、と思いながら、紡もまた、視線を戻しかけた。
戻しきれなかった。
目の端が、なにかを引っかけていた。
ベンチに崩れている男の、髪の分け目。喉のあたりに見える、小さなホクロ。耳のかたち。
紡の足が、自然に止まる。
――似ている。
いや、と紡は、すぐに自分の中の声を否定した。似ているだけだ、たぶん。十年も会っていない人間を、こんなところで見つけられるはずがない。世の中には、似た体格の、似た髪型の、似たホクロの位置の人間が、いくらでもいる。
いくらでもいる、と言い聞かせながらも、紡の体はもう動かなかった。
「電車が発車します。ご注意ください」
アナウンスが背中で鳴って、電車が走り去った。冷たい風が、もう一度、紡の体を通り抜けていく。乗るはずだった電車が、自分の視界の端で、加速していく音だけを残していった。
目を、離せなかった。
ホームをひとつ移動し、紡はゆっくり男に近づいた。一歩近づくごとに、記憶のなかの顔と、目の前の顔が、輪郭を合わせていく。少し大人びて、頬の影が深くなって、髪型は記憶より少し短くて、それでもなお、間違いようがなかった。見間違うわけがなかった。
――
高校の卒業式の日、駅前で「じゃあな」と片手をあげて別れたきり、それきり連絡の取れなくなった、紡の幼馴染。
卒業して半年も経たないうちに、紡が知っていた携帯番号は、使われていない番号のアナウンスに変わった。共通の友人に何度も訊いたが、誰も新しい連絡先を知らないと言った。紡は半年で探すのをやめた。やめた、というより、やめさせられた、というほうが、近かったかもしれない。
探されたくないのだ、と気づいてしまった日のことを、紡はよく覚えていた。気づいたら、それ以上、探しようがなかった。理由を考えようとすると、いちばん考えたくない可能性が、まっ先に頭の中で形をとった。だから、考えることも、やめた。
それから十年。たぶん、もう、二度と会わない。会わないままで、自分は、たぶん、生きていく。そう、何度も、自分に言い聞かせてきた。十年というのは、人を忘れるには十分な年月のはずだった。少なくとも、ほかの誰かのことならば、それで足りた。なのに、有馬のことだけは、忘れる、ということに、いつまで経っても、慣れなかった。
言い聞かせてきた相手が、いま、目の前で、酔って眠っている。
胸の奥を、内側から叩かれているような感覚があった。十年ぶりに見るその顔を前にして、紡は息をすることを、いつのまにか忘れていた。指先は冷たくなっているのに、握った手のひらには、じわりと汗がにじんでいる。心臓だけが、なぜか首のあたりまでせり上がってきているように感じた。
ベンチの上で、有馬は呼吸に合わせて、肩がかすかに上下していた。生きている。あたりまえのことが、なぜか急に、たしかなことのように、紡には思えた。
――どうしよう。
声をかけるべきか。それとも、このまま通り過ぎるべきか。
通り過ぎたら、たぶん、もう、二度と会えない。終電に乗って、家に帰って、明日になれば、これは、夢みたいな話になる。十年もかけて積み上がった「会えない」のなかに、今夜の偶然も、すぐに紛れていく。明日の朝、紡はきっと、いつも通りスーツを着て会社に行き、いつも通り笑う。今夜のことは、なかったことになる。
声をかけて、もしも、覚えていなかったら。「お前、誰?」と、知らない他人の顔で言われたら。――想像しただけで、紡は喉の奥が締まるのを感じた。それこそ、二度と、立ち直れない気がした。
覚えてくれていたとしても、それでも邪険にされたら。「もう、関わらないでくれ」と、ひとことで切られたら。十年前、自分の知らないところで、自分から距離を取った人なのだ。今夜、声をかけたところで、その判断が変わる保証は、どこにもない。
心が、やじろべえみたいに揺れる。声をかける、かけない、かける、かけない。揺れているうちにも、終電までの時間は、削られていく。
なのに、と紡は思う。なのに、自分の足は、もう、ベンチから離れる方向には、動いてくれない。
頭ではなにひとつまとまらないのに、紡の体は、勝手に、ベンチの前にしゃがみ込んでいた。
近くで見ると、思っていたより、疲れた顔をしていた。頬の輪郭が、高校のころより、少しだけ痩せている気もした。それでも、眉の形も、通った鼻筋も、薄く開いた唇のかたちも、全部、紡の知っている、十年前の有馬のままだった。眠っているせいで、表情がほどけていて、それが、いっそう、昔の顔に近かった。
目尻にだけ、見覚えのない疲れの線が、薄く刻まれている。十年というのは、こういう線のかたちで、人の顔に積もるのか、と紡は思った。自分の顔にも、たぶん、同じように積もっている。気づかないだけで。
かすかに、酒の匂いがした。それから、整髪料のような、柑橘の匂いが、少し。知らない匂いだった。十年のあいだに、有馬がどんな日々を積み重ねてきたのかを、その匂いだけが、紡に、教えていた。
ほっとしたような、こわいような、よくわからない感情が、胸のなかでゆっくりと混ざる。
膝に置いた手を、紡はぎゅっと握った。
通り過ぎたくない、と思った。
もう、思ってしまっていた。
喉に詰まりかけていた声を、紡は、押しだした。
「……有馬、だよね?」
自分の声が、自分の耳に、思っていたよりも小さく届いた。語尾が、わずかに、震えていた。震えていたことに、自分でも、少し、驚いた。
重たげな瞼が、ゆっくりと持ち上げられる。ぼんやりとしていた瞳が、少しずつ、焦点を結んでいく。
その目が、紡の顔を捉えた瞬間。
ほんのわずかに、見開かれた。
――ほんとうに、ほんの一瞬だけだった。次の瞬間にはもう、なにもなかったかのように、その表情は静かに元へ戻ってしまった。
見間違いだったかもしれない、と思うほどの、短い時間。けれど、見間違いではなかったことを、紡は、なぜか、わかっていた。十年経っても、紡は、有馬の表情の動きだけは、自分の手のひらの皺と同じくらい、よく知っていた。
有馬は、なにも言わなかった。
ただ、紡の顔を、じっと見ている。眠りから覚めきっていないのか、覚めていながら言葉を選んでいるのか、どちらとも判別がつかない、静かな目だった。
なにか言ってほしい、と紡は思った。なんでもいい、ひとことでいい。「久しぶり」でも、「誰だっけ」でも、いい。沈黙だけは、こわかった。沈黙のあいだに、十年分の距離が、もう一度、目の前で、ゆっくりと再生されていくような気がした。
紡もまた、息をすることを、忘れていた。
遠くで、終電の発車ベルが、鳴りはじめていた。
翌週の火曜日、紡は洗面所の鏡の前に立っていた。普段より三十分早くマンションを出るつもりだった。 いつもと変わらない朝のはずだった。なのに、髪をセットする手にいつもより力が入る。前髪の流し方を二度直して、ようやく落ち着いた。 ネクタイを締め直すと、結び目がいつもより一センチほど上に、きれいに収まった。たったそれだけのことで、なにかいいことが起きそうな気がしてくる。気がしてくる、ということ自体が、自分でも不思議だった。 今日は新ブランドの社内説明会議がある。ターゲット、展開商品、関わる人員。すべてが今日明らかになる。新ブランドの立ち上げにかかわれる社員は、社内でも一握りしかいない。そこに自分が選ばれたことは、紡にとって、入社五年目で初めてはっきりと手応えのある出来事だった。 雲の上を歩いているような気持ちが、出社しても抜けなかった。エレベーターで自分のフロアに着いたとき、社員証をかざすカードリーダーの音が、今日はすこし高く聞こえた。いつもと同じはずなのに。 ふと立ち止まり、紡は両手で軽く頬を叩いた。 メイン担当になるということは、自分が中心で動くということだ。浮ついている場合じゃない。気合いを入れ直して、自席へ向かった。 自席に着いて、会議資料を確認する。 文字を追うだけで胸が高鳴る自分に、紡はすこし笑ってしまいそうになった。こんなふうに仕事に高揚しているのは、入社してから初めてかもしれない。 時計を見ると、会議の十分前だった。すこし早いかもしれない。それでも紡はノートパソコンを小脇に抱え、会議室へ向かった。普段は冷たく落ちてくる蛍光灯の光が、今日はどこか温度を持って見えた。 会議室は指定席だった。ネームプレートが机ごとに置かれている。紡は深呼吸して、自分の名前のプレートが置かれた席に座った。 まだ誰も来ていない。プレートをひとつずつ確認していく。 ライフスタイル事業部の相沢本部長が上座。おそらくこのブランドの総責任者になるのだろう。次に紡の所属する営業企画部の部長、関連部署の課長がふたり。隣の席は営業部の黒木の名前だった。 会議
自宅のマンションに帰り着くなり、朔也は玄関でへたり込んだ。 やばい。 十年間ずっと会いたいと思い続けてきた相手と、よりによってこんなかたちで再会した。スーツに皺がついたまま、玄関のたたきにうずくまっている自分を、どこか他人ごとのように朔也は感じていた。 うれしすぎて、高校時代の自分にすぐ戻りそうになる。けれど、自分から距離をとっておきながら今さら「久しぶり」とは言えなかった。十年前、自分の側で線を引いたのだ。引いた線を、今になって自分から踏み越える権利は、たぶん、もう、ない。 駅のホームのベンチで酔いつぶれていたら、声をかけられた。懐かしい声だと気づいたときには、目はもう半分ほど開いていた。焦点が合った瞬間、紡の顔がそこにあった。幻覚を見ているのかと思った。徐々に輪郭が鮮明になっていって、本物の紡だと確信した瞬間、朔也の酔いは音を立てて飛んだ。 それでも、朔也は酔いつぶれたふりを続けた。 しらふで対応したら、自分がどんな顔をしてしまうか、わからなかった。十年もずっと片想いを引きずっている、なんて、痛すぎる。痛さを紡に見せたくなかった。 あふれそうになるものを抑えるためにシャワーを浴びた。湯を頭から被っても、熱は引かなかった。無理やりベッドに横になり、目を閉じた。覚めたつもりでもアルコールは残っていたのか、意識はあっという間に遠のいた。 翌朝、目を覚ました瞬間、知らない天井がそこにあった。 いや、自分の部屋の天井だ。それなのに、なぜ「知らない」と感じたのか、すぐにはわからなかった。 鼻の奥に、かすかな柑橘の香りが残っている気がした。誰かの肩にもたれかかった感触。耳のすぐそばにあった他人の息遣い。 あれは、やっぱり夢だったのだろうか。 好きでたまらなかった相手だった。 あまりにも近くにいすぎた。だから、いつ気持ちがあふれだしてもおかしくなかった。あふれだした瞬間に、あの関係は終わる。確信に近い予感だけが、十年前の朔也のなかで先に育っていた。壊れるくらいなら、なにも言わないほうがいい。それが朔也のたどり着
予想通り、眠れなかった。 十年間、会いたいと思いつづけてきた人が、ついさっきまで自分の肩で眠っていた。その光景が頭のなかで何度も繰り返し再生され、紡はベッドのなかで瞼を閉じることもできないまま朝を迎えた。 胸のポケットに押し込んだメモを、有馬がいつ広げるのか。広げたとして、なにを思うのか。捨てるのか。捨てるとしたら、玄関のごみ箱なのか。それとも、駅の改札脇なのか。考えはじめるとどこまでも枝分かれしていって、それを一本ずつたどるうちに窓の外が白みはじめていた。 身支度を整えても頭はぼうっとして、体が重い。食欲もなく、ブラックコーヒーを一杯だけ飲んで家を出た。 電車のなかでは、吊り革に寄りかかるようにして揺られていた。立っているだけで体が斜めにかしぐ。隣の乗客にちらりと見られて、紡は慌てて姿勢を直した。 会社に着いても、ゆっくりしている暇はなかった。新規ブランドの立ち上げが目前で、社内全体がじわじわと忙しくなりはじめている。寝不足だろうが疲れていようが、仕事は待ってくれない。 紡はブラックコーヒーをマグカップで三杯、立て続けに胃へ流しこんだ。空腹の胃にコーヒーがしみて、奥のほうがキリッと痛む。それでも頭はずんと重いままだった。 こめかみを人差し指の第二関節で押しながら、営業資料に目を落とす。文字は確かに並んでいる。読めない。視線が上に滑って、また同じ行に戻る。 ――忙しいんだから、しっかりしろよ。 自分に言い聞かせても瞼は勝手に落ちてくる。 だめだ。今日は、進む気がしない。 紡はマグカップを手に給湯室へ向かった。四杯目のコーヒーを淹れに行きながら、紡は十年ぶりに肩で感じた重さを、まだ自分が覚えていると気づいてしまった。 ようやく昼休みになり、社員食堂へ向かった。 午前中は、会社員になってからいちばん長く感じた時間だった。集中できないと、時間というのはこんなにも進まないものなのかと、初めて知った。 日替わりランチをトレイに乗せ、空いているテーブルに腰を下ろす。アジフライにひじきの煮物、味噌汁、ご飯。揚げたてのアジに箸を入れると、衣がさくっと音を立てた。口に運ぶと、ふっくらとした身が舌の上でほどけていく。「うまっ」 小さく呟いたそのとき、スマホが震えた。 茶碗をトレイに戻し、画面に目を落とす。知らない番号からのショートメッセージだった。
終電が去ったあとのホームは、急に音がなくなった。 紡は、ベンチの前にしゃがんだままで、しばらく動けなかった。有馬の目は、紡を見ているのか見ていないのか判別がつかなかった。ただ、目だけは開いていた。 駅員の足音が、ホームの向こうから近づいてきた。「お客さん、大丈夫ですか」 近くで聞こえた声に、紡はようやく我に返った。膝を伸ばして立ち上がる。「すみません、大丈夫です。すぐ出ますので」 駅員は、軽く頷いて、別のホームへ歩いていった。紡は、もう一度、有馬に向き直った。「有馬、立てる?」 返事は、母音だけのような、よくわからない呟きだった。それでも紡の声に応えるように、有馬はゆっくり立ち上がった。立った瞬間、足元が大きくぶれて、紡はとっさに腕を伸ばした。 有馬の体が、紡の腕の中に倒れ込んでくる。 息が止まった。「……お前、相当、酔ってるな」 返事はなかった。 紡は有馬の右腕を自分の肩に回し、もう片方の腕を有馬の腰に添えた。半身で抱えるかたちで、ホームを歩きはじめた。一歩、踏みだしただけで、想像していたよりずっと重たい体重が、紡の肩にのしかかった。記憶のなかの、リュックを揺らして歩く高校生の体ではなかった。当然のはずなのに、その当然が、紡には、どこか不思議に感じられた。 肩越しに、整髪料の柑橘の匂いと、わずかな酒の匂いが交じる。十年前、紡が知っていた匂いとは、別の匂いだった。「家、どこ?」 肩を支え直しながら、訊いた。「……えき、の……」 呂律の回らない口で、有馬は、町名を呟いた。聞き取れたのは、都心からは少し離れた地名だった。終電は、もう、行ってしまっている。「タクシーで送るから、しっかりしろよ」 返事のかわりに、紡の肩で、有馬が小さく頷いた気配があった。 なんで、こんなになるまで飲むんだ。 心配と苛立ちのちょうど真ん中のような感情が、ふと
水曜日の夜、二十三時四十分。 白瀬紡は駅のホームの端で、電光掲示板を見上げていた。終電まで、あと三本残っている。残業明けの目の奥が、じんと重い。十月の上旬の夜気は、思っていたより冷たくて、スーツの隙間からするりと滑り込んでくる。コートにはまだ少し早い季節だった。「……今日は終電じゃないだけ、ましか」 吐き出した息が、白く空気に溶けた。誰にともなく呟いた声を、自分の耳で確かめるように聞く。明日もどうせ残業の予定だ。この疲労がそのまま明日に持ち越されることは、もうわかっていた。新ブランドの立ち上げが秋から本格化する、という話が部内に下りてきてから、紡のデスクには毎日、判断待ちの書類が積み上がっていく。会社を出るころには、もう、二十三時を回っていた。 ポケットから指先をだして、目頭を軽く揉んだ。少しだけ、楽になった気がした。 乗り換え案内のアナウンスが、ホームに流れる。同じトーンで繰り返される録音音声のあいだに、駅員の生のアナウンスが混じる。終電が近い時間の駅は、いつも、こんな空気をしている。明るすぎる蛍光灯と、薄く酒の匂いが漂う構内と、誰もどこかへ帰りたがっている顔ばかりが並ぶホーム。 ふと、紡は自分の立っているこの駅が、自宅にも会社にも近くないことを、もう一度、意識した。乗り換えのために降りた駅だ、ということにしている。一年ほど前から、紡はときどき、わざわざこの界隈で電車を降りるようになった。理由は、自分でも、ちゃんと言葉にしていない。言葉にしたら、ばかみたいだから。 ただ、何度かこの駅を歩いてみても、なにかが起きるわけではなかった。当然のように、なにも起きないまま、紡は何度も、別の路線に乗り換えて家に帰った。それでも、月に一度か二度、紡はこの駅に降りた。降りたあと、改札を出るでもなく、ホームのベンチに座って、しばらく電車を見送ってから、また別の電車に乗り直すこともあった。自分が、なにを期待してここで降りているのか、確認しないようにしてきた。確認したら、そのときに、自分の行動の意味が、急に、こわい色に変わる気がした。 考えはじめたら止まらなくなる気がして、紡は浅く息を吸って、考えるのをやめ







